会報木霊の駅

木霊”こだま”のお告げで発行 第10号

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お告げのハガキ その2
前号・弘前市 小野寺靖久さんからのお便りへ
花巻市 後藤純子さんからお返事

小野寺靖久様
こんにちは。お葉書いただきました。
 お尋ねのてっぽう虫は、カミキリムシ類の幼虫で間違いないと思います。おいしい虫として有名で、日本では昔から各地で食べられていたようです。
 食べ方は、生で食べる他、火であぶって塩をふる、油炒めにするなどいろいろあります。今度見つけたら、違った味付けでお試し下さい。
 ただし、生木や乾材にいるのは衛生上問題ないが、腐った木に入っている虫は生では食べないよう要注意、だそうです(^^)。
 参考図書:「虫を食べる人びと」(三橋淳・平凡社 1800円)

後藤純子さんからの今回のお告げは…

「お告げの指名」
私の知人は、以前とても勇気ある挑戦をしました。
山でツタウルシを見つけると、うわさに聞く「ウルシかぶれ」とはどんなものかと、その汁を手の甲に塗ってみたのです!
効果はてきめん、汁をつけたところはもちろん、汁をつけなかった二の腕にまで赤いかぶれが広がり、大変な思いをしたのだそうな・・・。
ところで、これ程強力なウルシを日常扱っている漆器作りの職人さんは、ウルシに負けないのでしょうか。それとも毎日接していると体がウルシに慣れるのか?
ウルシに詳しい先生、教えて!
PS.幸か不幸か、私はウルシかぶれをした経験はない。
純子先生から次のご指名は(ハガキに書いてなかったけど)久慈市・橋上智さんです。ハガキに質問への答えとお好きな話題、そして次の人のご指名を忘れずにお書きのうえ、編集人までお送りください。よろしくお願いいたします。
初夏のイベント報告
「木霊下田駅企画交流会」
〜名久井岳登山と山菜料理教室〜
5月19日(土)〜20日(日)   記録:川村冬子

 青森県下田町の竹中靖駅長を中心に、北東北の会員12名+1歳児1名(うちのです。FK)と、友人ご夫婦2名が参加しました。
 1日目は三戸町城山公園で昼食、園内の樹齢400年のスギ、アカマツ、サイカチなどの巨木を見学した後、標高615mの名久井岳に登りました。登山道沿いではクリがようやく開葉したところ、ミズナラは鎖のような花を垂らしていました。またキバナイカリソウやササの花、頂上ではマルバシモツケの花も見られました。
 下山後、三戸町内で古民家にアトリエを開いている木霊の会員、田村正義さん宅でお茶をご馳走になりました。古民家は日本の山仕事、大工仕事の粋。こうして現代の生活の中に生かしておられる田村画伯の姿勢に頭が下がりました。
 その晩は下田町の旅館「月見亭」で総会および懇親会を持ちました。
 2日目は下田町の竹中邸をお借りして、吉川進先生の山菜料理教室が開かれました。食材はシドケ、ミズ、ワラビ、ヤマウド、アザミなど、すべて金曜日のうちに山で採取され、丁寧に梱包、冷蔵されて持ち込まれたものです。(中野事務局長、ご苦労さまでした。)
 日頃から会報で山菜料理を紹介してくださっている吉川さんの包丁さばきに見とれているうちに、各種お浸し、煮付け、天ぷらなどがどんどん並びました。青々したアザミを浮かせた味噌汁と、ウドのほろ苦さが豚肉とよく合った「ウド・スペシャル」(煮付けです)は忘れられない味でした。また中野さんが考案したシドケのお浸しをすし飯でのり巻きにして食す「中野スペシャル」も新鮮な味でした。

 吉川先生の山菜料理に対する姿勢は、山菜本来のみずみずしい色、香り、歯触りを厳しく追求することにつきるのでした。大鍋一杯の煮立った湯、お浸しを急冷する氷水・・・冷熱使いこなすことが山菜を料理する極意と見つけたり。先生どうもありがとうございました。そしてお疲れさまでした。
 また今回の企画をしてくださった上にご自宅を使わせてくださった竹中さん御夫妻に心から感謝申し上げます。(おわり)

「早池峰山・八幡平フラワートレッキング」
〜初夏の高山植物の花を観に行く〜
6月23日(土)〜24日(日)   記録:川村冬子

 昨年夏の早池峰山・焼岳、秋の白神山地に続き、一般の参加者を交えて1泊2日のトレッキングを行いました。参加者は木霊の会員から3名、一般の方が仙台から7名、岩手県内から8名、それにインストラクター及び事務局として、藤原さん、松尾さん、後藤さん、川村夫婦が同行しました。
 1日目は早池峰山登山。朝9時すぎに東北新幹線新花巻駅に集合し、「ロッジ・タンデム」のマイクロバスで小田越登山口に向かいました。バスの中では、参加者全員の紹介、コース解説や早池峰山の地質・動植物の説明、登山中の注意を、各インストラクターから行いました。
 天気は晴れ時々曇り。小田越を出発し樹林帯の中を進むと、オサバグサの白い花が見られました。コメツガやナナカマドなどのトンネルを抜けると「御門口」、早池峰山特有の蛇紋岩と低灌木の風景が開けました。花期を迎えていたのは黄色のミヤマキンバイ、キバナコマノツメ、ナンブイヌナズナ、青いミヤマオダマキ、赤紫のミヤマシオガマ、また濃い紫のミヤマハンショウヅルの花も見られました。
 「のんびりコース」のグループは3合目付近から下山、登頂組は5合目「千両箱」で昼食をとり山頂を目指しました。この付近で、わずかに花を開き始めたハヤチネウスユキソウやナンブトラノオも見られ、大もうけ(まだ季節的には早いと思われていたので)。7合目あたりからガスが立ちこめ始めましたが、まだ天候は上々で、白い絨毯を敷いたようなイワウメやチングルマの群落が霧の中に浮かんで見えました。
 小田越コースのクライマックス「鎖場」を無事通過し、稜線へ到達。岩塊と湿原の「御田植え場」を通って、午後2時頃山頂へ着きました。祠の前で記念撮影の後、山頂小屋の中でお湯を湧かしてコーヒーやスープ(藤原さん、山田町の鈴木さん、ごちそうさま)、さらにドイツワイン(花巻の長谷川さん、ごちそうさま)も味わいました。
 ガスで眺望は開けなかったものの、まず穏やかな天候のうちに下山しました。今回の早池峰登山では地元の監視員の方が同行してくださり、植物の解説もしてくださって、大いに心強かったのでした。監視員の泉沢さん、前川さんに、この場で再びお礼を申し上げます。
 その後は一路、安比高原へ向かいました。宿泊は木霊の会員矢部公輔さん経営の「ロッジ・タンデム」にお世話になりました。近所の「あずみの湯」で温泉浴を楽しんだ後、山の幸をふんだんに使った心づくしの夕食を頂きました。食後は恒例の後藤純子先生の虫のスライドと、川村の屋久島のスライドでミニ講座を行いました。
 翌朝は8時半にタンデムを出発して八幡平に向かいました。
 この日のコースは、八幡平頂上駐車場を発ち、八幡沼、源田森頂上を経て、黒谷地に抜けるものでした。天気は曇り。やや冷たい風が吹き、眺望は開けませんでした。今年は春の到来は早かったものの、積雪が多かったためか残雪が多く、花の開花状況は遅いようでした。花が見られたのは、ベニバナイチゴ、イワナシ、ヒナザクラなどで、満開時には圧巻となるショウジョウバカマの群落にはまだ花は見られませんでした。
 黒谷地のウッドデッキでタンデム特製のフキの葉で包んだ赤飯おにぎりと漬け物の弁当を頂きました。チシマザサの長い回廊を抜けると、八幡平トレッキングは終了。八幡平観光ホテルの「グリーンスパ」で温泉浴し、午後3時、全員の無事を感謝しつつ、解散となりました。
 タンデムの矢部さん御夫妻とバスの運転手さん、引率兼運転手を勤めたインストラクターの皆さん、本当にご苦労さまでした。(おわり)

「岩手地饅いわてじまん物語」第三部  万澤 安央

(前号からつづく)
 そして7月20日、盛岡肴町の県のアンテナショップ「ほっといわて」で「あしろ野菜まんじゅう」は発売開始後、2時間半で200個すべてを完売して、上々の滑り出しを見せた。その売れ行きを見ていた盛岡地方振興局の担当者が「10月9日〜11日、東京・代々木で開かれる銀河系いわてフェスティバルに出品しませんか?」とささやいた。降って湧いた良い話に、一も二もなく飛びつき、その場で担当者の引継ぎまでして出店を決めてもらった。
 東京での売り上げ目標はいきなり3千個に決めた。作るだけでも大変な数だが、栄子さんたちはそんなに売れるのかと半信半疑だった。しかし、この味は東京人にもウケるという確信がボクにはあったのだ。そして名称も正式に「あっぴ地饅」とし、一般名詞として「岩手地饅」と決めた。
 そして10月9日の東京・代々木公園のテント出店で「あっぴ地饅」は正式デビューした。午前10時開店後まもなく「おいしい!」と試食の人だかりができ、「あっぴ地饅」はせいろで蒸し上げるそばからあっという間に無くなって、午後5時ちょうどに1000個を完売した。そして残る2日間ともそれぞれ1000個を完売、結局、3日間で合計3000個を見事に完売できたのだった。しかも長野出身のお客さんが「この皮、長野おやきよりおいしい!」と言ってくれたときは、全員が素直に喜んだ。ある意味で、それが先輩・長野おやきに対する最大のご恩返しのように思えたからだ。

「岩手地饅」続々誕生の巻
平成11年10月9〜11日
 東京・代々木公園で3日間にわたって開かれた「銀河系いわてフェスティバル」で首都圏デビューを果たした「あっぴ地饅」は、見事に合計3000個を完売して、ヒット商品としての可能性を証明した。
 そして、同じ10月の31日に盛岡・肴町の「ほっといわて」で凱旋地元デビュー販売を行いここでも「あっぴ地饅」は見事に500個を完売して、ヒット商品の片鱗を見せ、平成12年の2月20日にも「ほっといわて」で300個を約2時間で完売した。

平成11年12月
 地元安代町に革新的なとうふ屋さん、「ふうせつ花」(電話0195-72-8008年中無休)がオープンし、そこでも正式に「岩手地饅」を製造販売することになり、名称も「ふうせつ花地饅」と決まった。毎日とうふ屋さんの店頭で売られている「ふうせつ花地饅」の具は、おから、切干大根、かぼちゃの3種類で、いまでは固定ファンが必ず買って帰る人気商品となっている。
平成12年1月末
 岩手県の北緯40度東端にある普代村の特産品開発「ひまわりグループ」と正式契約、村の行事などで好調な販売を見せ、6月10日には盛岡の南となりの矢巾町でデビュー販売、「ふだい地饅」は、わずか2時間半で「あっぴ地饅」ともに400個を完売した。そして、久慈地方振興局から「特産品奨励賞」を受ける栄誉にも輝いたのである。
平成12年12月12日
 岩手県花巻市の有名なつけもの屋さん、「金婚亭」(電話0198-26-2250代)を経営する鞄ケ奥も「岩手地饅」製造販売の正式契約を行い、現在、試作を進めているところである。名称はまだ未定だが「はなまき地饅」も候補のひとつである。

 というわけで、岩手各地に「岩手地饅」が増えて、やがてそれらを食べ歩く「岩手地饅めぐりの旅」、いわば楽しいC級グルメコースがいくつもできるようにすることも当初からの目標なのである。まんじゅうの中においしい具を入れるという単純な形式の中で、各地の自慢の味が競い合って、味のレベルがどんどん高くなることが、どこまでいっても大きな楽しみだ。
 そして、たくさんの「岩手地饅」が製造販売されることは、岩手の農水畜産の応援ができることでもある。おいしい食材が売り物の岩手に、それをうまく組み合わせたおいしいものができるのは、自然な流れなのである。そんなわけで「岩手地饅」はたくさんの人々の期待に見守られながら、すこしづつ広がってゆこうとしている。    (完)
会員のみなさんの活動 ご紹介

仙台市  大塚 隆久さん

「SEED=Sendai Environmental Events Design」立ち上げ!

 "次世代を担う子供や若者を中心に、自然のすばらしさを伝え、思いやりを持ちながら生活できる人々を増やすこと"を趣旨とし、今春設立されました。大塚さんほか3名の方がフォレスト・ナビゲーターとして、自然に親しむイベントを企画・運営されています。立ち上げ第1回のイベントは「ムササビ・ウォッチング&イタリア料理の夕べ」で、去る5月17日に開催されました。仙台市内で会社帰りにムササビ観察、その後はイタめしに舌鼓を打ちつつ自然について語ろう、という今までなかったタイプの観察会です。
 SEEDには英語で「種を蒔く」という意味もあります。"これまでの観察会のような保護活動の一環ではない、ありのままの自然を楽しむ企画をプロデュースする"というSEED、今後森づくりやキャンプ、ネイチャークラフトなどのイベントから、講習会への講師派遣、インタープリター養成など、活動を展開していくそうです。

青森県蟹田町  松尾 亨さん「子ども樹木博士」認定活動推進協議会 会員
 

「子ども樹木博士」認定活動は、樹木にふれて名前を知ることを通じて、子どもたちが森林や自然に関心を深めること、そして親子の会話の機会を提供していくことを目的に、昨年6月始まりました。
 具体的には、森林や公園などで子どもたちに樹木の名前や性質、森林のしくみなどを教えた後、樹木の枝葉等のサンプルを見せてその名前をあてるテストを行い、その正解数に応じて段級位を記した認定証を授与するというものです。実力審査基準は、1種類=10級から10種類=1級、30種類=3段、50種類=5段のようになっています。
 同協議会は(社)全国森林レクリエーション協会内に設置されています。私たちが活動に参加するには、@「実施組織」として登録する、A会費を払って活動をサポートする会員になる、という二つの方法があるそうです。
 近頃、山、森林、山野草・・・といえば中高年パワー炸裂なのですが、実は将来を担う子どもたちにこそ、もっと親しんでもらわなくてはならないのです。前段大塚さんのSEED設立趣旨にも共通する命題ですね。

岩手県山形村  菊池 美和さんボランティア団体「山形木霊の会」森林巡視員

 同会は平成12年から森林管理署久慈支署に協力して、山形村内の国有林を中心に森林巡視、保育作業、道路修繕工事、松茸の生育環境整備などを行うほか、観察学習会も開いています。
 単に森林の保育を行うだけでなく、木の実、キノコにマンサクの花、クマにノウサギ、ワシタカ類、ヤマメやカジカに至るまで、森の植物や虫魚禽獣の生育・繁殖状況を細かく観察し、松茸盗掘や入山者のゴミ捨て問題などにも目を配っています。林内に歩くスキーのコースもつくられたとか。山形村の森を訪ねてみたいですね。
森は尽きないエネルギー 7

 森と言うと陸上を思うだろう。だが水の中にもそれは有る。〈海中林〉と言われている、大型の昆布などがまとまって数年以上生えている所を指すそうだ。陸上と同じで海の森の周辺は食物連鎖により魚介類も増える。コンブはウニ、アワビの主食となる。近年ウニ、アワビの放流が多く、これがコンブなどを食圧し磯焼けを引き起こす場合も有る。
 新聞で子供達による魚の放流が微笑ましく報じられるが、放流魚の種類や場所に問題が無いわけでもない。陸の人工林と似ている。
 人間によって自然や環境を良くするためには学術に基づく技法が必要だ。ウニやアワビを増やしたかったらコンブや藻類を増やすべきで、順序に逆の場合がまま有る。尽きない森も海そして川も、もっと学術を高め普及させなければ本物にならない。

(中野雅幸)

川が川を奪う!?
連載 なしてあそごさ山あるべ〜のんべのための地圏講座〜
盛岡駅 川村晃寛
 下の絵は1/50,000地形図「川尻」の湯田ダム付近のものです。かつて秋田県平賀郡横手町と岩手県和賀郡黒沢尻町を結んだ横黒線(現北上線)がダム湖の左岸を、平和街道(現国道107号線)が右岸を走っています。最近、秋田自動車道が2車線開通しました。
1882 平和街道開通
1924 横黒線開通
1965 湯田ダム完成
1997 秋田道開通

(地形図)

 平和街道の開通から30〜40年間隔で大きな工事が繰り返されています。今後もまだ続くのでしょうか?(4車線拡幅工事が残っている!)
 さて、秋田自動車道が通る小荒沢(絵のC点からD点の谷)に着目してみましょう。谷筋ははっきりしていますが、地形図上には青い水流線が記載されていませんので、破線を書き入れました。実はこの沢の流域面積はとても狭く、水流線を書き込むほどの水量がありません。水量が多いと浸食作用も大きく、大きくはっきりした谷が形成されます。水量が少ないのに何故このようなはっきりした谷地形が出来上がったのでしょうか...?
 次に上流側のA点上流からB点に流れる安久登沢に注目して下さい。B点でこの付近で最も流域面積の大きい南本内川に合流しています。この安久登沢も等高線から見るとかなりはっきりした谷地形を形成しています。さて、そのこころは...。
 実はこの安久登沢はその昔A→C→Dの経路を通って流れていた可能性が高いのです。
何が起こったのでしょうか?
 今度は左側を流れる南本内川に注目して下さい。黒く示した流路は山間部では珍しく結構蛇行しており、等高線から見ると谷も結構広くなっています。谷が広く蛇行しているのは、洪水の度に流路を変える「暴れ川」になっていた証拠なのです(日本での代表例は札幌上流の石狩川)。暴れ川はしょっちゅうその流路を変えます(最近はコンクリートにより水路が固定され、流路を変える現象はほとんどなくなりました)。そう勘のいい貴方は気付きましたね。その昔、蛇行した南本内川は、絵の↓の地点の尾根を浸食し、隣を流れていた安久登沢を奪ったのです。その結果、安久登沢はB点で南本内川に流れ込み、D点まで流れるのを止めました。奪った当初は、絵の↓の地点で高さ80mもある豪快な滝が形成されたでしょう(それも極々短時間に)。その後滝は浸食後退し、現在の形になりました。下図は河川横断図でその経緯を示しています。

 この様な現象が現地形に現れている事は結構稀ですが、この現象は「河川の争奪(そうだつ)」と呼ばれています。このように分かり易く、イメージのふくらみやすい専門用語もまた稀でしょう。
 C→Dの谷地形がはっきりしているのは昔上流の安久登沢の水流が流れ込んでいた為らしいということが分かりました。
 では何故↓の地点が切れたのでしょうか?
 実はB点付近を通る西北西−東南東の地質的な弱線がありそうなのです(地質と地形の関係についてはまたいずれ)。
 さて争奪が起こったのはいつ頃でしょうか?
 河川は洪水の度に流域の土砂を削って下流に運搬します。世界や日本の各地域で、その運搬度合い(=削剥速度)が報告されています。
世界の大河(ナイル、アマゾン、ミシシッッピ) 13〜60mm/1000年
日本一の流域面積を誇る利根川 137mm/1000年
ヨーロッパアルプスの河川 100〜800mm/1000年
奥羽山脈北部(岩手〜宮城) 200〜400mm/1000年
奥羽山脈南部(福島〜栃木) 400〜600mm/1000年
中部山岳地域(日本アルプス) 1000mm/1000年以上
黒部川 7000mm/1000年
 以上の値は流域全体の平均的な削剥速度なので、流心に近い谷部近辺の浸食速度はもっと大きくなります。阿久登沢流心部の浸食速度は1000mm〜10000mm/1000年(幅がありすぎる!?)のどこかでしょう。そうすると80mの滝を浸食するには、8万年〜8千年かかったことになります。前者であれば「明石原人」のいた旧石器時代、後者であれば「三内丸山人」のいた縄文時代ということになります(ある理由から後者の可能性が高いのですが、興味のある方は直接聞いて下さい)。
 何はともあれ、地形図から読みとれる情報はかなり多いのです。
 因みに、B点の西側には「水無沢」の沢名と「草井沢」という地名があります。水無沢とはその名の通り涸れ沢で、土砂の供給量が多いため伏流していることを示唆しています。事実、その上流には土砂を常時供給していると思われる崖記号が読みとれます。草井沢は「腐井」の転化で、伏流水が湧き出るところ(扇状地端部)が鉄錆水であったことを伺わせます。
 また安久登沢は、争奪により河川勾配がきつい急流河川になったため、「悪党」沢なのだと言うこともできますが、↓の地点で山が切り開かれているため(草井沢付近から見ると確かに山が一部分だけ開けている)「明戸」の転化ではないかと想像されます(登山用語ではキレット=切戸と言ったりします)。
 小荒沢は争奪以後、流れも少なく穏やかで勾配の緩い沢地形を保ちました。そのため、高速道路用地の格好の餌食になりました。ここに道路を通せば、切土は少なく済むし、トンネルのズリもうまく処分できます。これ以上ない経済的で合理的な線形です。よくぞここを通したと言うことになるでしょうか。
 10数年前、小荒沢を歩いたときはウドとシドケの宝庫でした。また大荒沢と小荒沢の間をクマが行き来していました。小荒沢の東隣にある大荒沢奥の鉱山(昭和初期廃鉱)がまた再開しない限り、とりあえずは何とかクマの聖域は守られるでしょう。

虫さんのおはなし 

実は全部つくりもの?映像の中の虫  後藤純子

 故・黒澤明監督の映画、「八月の狂想曲」は見ましたか?
 あの映画の後半に、アリの行列が登場します。アリ達は、一列に並んで地面からバラの木へ上がり、そのままどんどん登って、真っ赤なバラの花までたどり着きます。その様子を、リチャード=ギアが少年と二人で眺めています。
 何気ないようなこのシーン、実はアリの研究者達が、当時のアリに関するすべての知識を駆使し、相当な苦労の末に撮影していたのです。
 アリが行列を作るのは、においで他のアリに道を教える「道しるべフェロモン」という化学物質を出しているためです。そこで、研究室で抽出した「道しるべフェロモン」を使ってアリの通り道を作り、そこへ余所で捕獲した大量のアリを放して撮影したのです。それでも最初はうまくいかず、何度もやり直した末に、やっとあの場面が完成したというわけです。
 先頃、TVを見て「おや?」と思うことがあります。
 例えば、岩手県を舞台としたあるドラマでは、夜に流れる虫の声が、関東以西でしか聞こえない虫しぐれでした。最近では、NHKの連続ドラマ「ちゅらさん」で、沖縄本島北部に生息し、しかも8月以降に鳴くはずのセミが、なぜか7月の那覇市で盛んに鳴いていました。
 最初は、「おいおい、いい加減な音響つけるなよ」と憤りすら感じましたが、先のアリの例で、ふと思い直しました。「いや、これはインチキではなく、映像と音響を融合した芸術作品かも知れない」と。
 それにしても、TV番組の虫の声までチェックする私って、相当の不粋者かも・・・(反省)。


編集後記:まずは皆さまに、今号の発行が大変遅くなりましたことをお詫び申し上げます。本来「木霊のお告げ」はだいたい1ヶ月おきに編集人のもとに下るのですが、今回は編集人の個人的な事情で木霊さまと会員の皆さまを長いことお待たせしてしまいました。本当に申し訳ありませんでした。/来る9月8日〜9日の学習交流会のご案内がお手元に届いていることと思います。テント泊まりで勿論自炊という実に基本的かつ素朴なキャンプ及び大変厳しいシゴキ観察会(ウソ)がN事務局長のもと計画されています。また工藤会長には久々の指揮・指導を執られるとのことで、とても内容の濃い企画になるはずです。皆さまこぞってご参加のほど、お待ちしております。/編集人一家はまたもや1歳児を道連れに参加する予定。ダレだ、夜の企画のほうが楽しみだなどとほざいている編集人及びその夫はーっ?(FK)